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江山文庫こどもQ&A
このコーナーでは、江山文庫や俳句のことについて調べていた地元の小学生から以前に寄せられた質問とその答えを紹介しています。
子どもたちの素朴な疑問とその答えを通じて、江山文庫や、短歌と俳句の里・与謝野町について、みなさんの「知りたい」気持ちをほんの少しでもお手伝いできればと思います。
 
 
Q1, なぜ加悦は俳句の里とよばれているのですか
Q2, だれが加悦に俳句を広めたのですか
Q3, 加悦には昔俳人がいたのですか
Q4, なぜ江山文庫はできたのですか
 
Q,なぜ与謝野町は俳句の里と呼ばれているのですか

A, その理由にはまず、この町が持っているすばらしい自然があります。与謝野町のあちこちからよく見える大江山の景色は昔からとてもきれいで、町の中を流れる野田川も今とはだいぶ違うと思いますが、たいへん気持ちのよい川でした。
あなたはこれまでに

「俳句を作る時には、俳句に詠み込むものをじぃ〜っと見ることが大切だ」

と、教わったことがあるでしょうか?
俳句の世界では、このことを「写生(しゃせい)」といいます。頭で考えるのでなく、じぃ〜っと見たこと、見て感じたことをそのまま言葉にしなさいという意味です。
つまり、すばらしい自然を俳句にするとき、頭の中で思い描くだけではなく、実際にその目で見なくてはいい俳句になりません。
そこで、昔から多くの俳人たちがこの町のすばらしい自然を自分の目で見るために、遠くからやってきました。
そのうちのもっとも有名な一人に、与謝蕪村(よさぶそん)という人がいます。
江戸時代の人で、画家でもあった人ですが、宝暦(ほうれき)4年から宝暦7年(1754〜1757)の間にこの町にやってきました。加悦は蕪村のお母さんのふるさととも言われていますが、蕪村はここで、とても有名な俳句を残しました。

 「夏河を 越すうれしさよ 手に草履」
   (なつかわをこすうれしさよてにぞうり)

 俳句の意味;
  夏の暑いときに歩いていると目のまえに川がありました。
  川の向こうがわへ行きたいのですが、近くに橋もありません。
  そこで足にはいていたぞうりをぬいで手に持ち、流れの中に
  じゃぶじゃぶと入っていきました。
  水にふれる足の冷たさはとても気持ちよく、こうしていると、
  子どもの頃に裸足で楽しく川遊びをしたことなどを思い出して、
  なんだかうれしい気持ちになってきます…

蕪村はお母さんを早くに亡くしているので、お母さんと過ごした子供時代を思いながら加悦に来て、この俳句を詠んだのかもしれませんね。

ほかにも多くの俳人たちが加悦にやって来ては、すぐれた俳句を残していきました。
そして、加悦に住む人たちもそうした俳人の訪れをよろこび、また自分たちでも俳句を作る人が大勢いました。
そうした人たちは、この俳句というすばらしい日本の文化を大切にし、同時に、昔から多くの人が俳句に詠んできた加悦のすばらしい自然を守りたいと思うようになりました。

そこでこのまちを「俳句の里」として、みんなでこのすばらしい日本の伝統文化を大切にして、俳句作りや加悦の美しい自然を自分の子どもたちに残していこうと思うようになったのです。

先ほども書いた俳句「夏河を 越すうれしさよ 手に草履」。これは蕪村が加悦で作ったものです。

ここでいう「夏河」とは加悦谷を流れる野田川か滝川ではないかといわれていますが、もしも将来、加悦にきれいな川が一つもなくなってしまったら、本当に加悦で作られた俳句なのかどうか、わからなくなってしまいますよね。
「俳句の里」として俳句を大事にすることは、自分たちの生まれ育った自然をたいせつにすることでもあるのです。


Q,だれが与謝野町に俳句を広めたのですか

A, この町には与謝蕪村をはじめ多くの有名な俳人が訪れていますが、昔から住んでいる人たちの間でも、俳句作りは盛んでした。
ですから、だれが広めたという風に、はっきりと一人に決めることはとても難しいのです。

ただ、蕪村の夏河の俳句はとても有名ですし、自分たちの住む土地を、蕪村のようにすぐれた俳句に作れたらいいなと思って俳句をはじめた人もいたのかもしれませんね。

そうして俳句を作るようになった人たちは、俳句作りのおもしろさを自分の子どもたちに教え、やがて子どもたち自身も俳句を作るようになり、その子がまた自分の子どもたちに伝え…
という風に、だんだんと加悦で俳句作りが広がっていったのでしょう。


Q,与謝野町には昔俳人がいたのですか

A, この町に生まれ育った人にも俳人はいましたし、今でもあなたの周りにたくさんいます。昔の俳人では、例えば杉本鉄山(すぎもとてつざん)という人がいました。
江戸時代の終わりに生まれたこの人は、加悦で昔から盛んだったちりめん作りを仕事にしていて、とても大きな工場を持っていました。
60歳頃から俳句を始めるようになり、たくさんの俳句を作りました。
また、遠くから丹後にやって来る有名な俳人たちともよく付き合い、その訪れを歓迎しました。

ところで、俳人とはどんな人のことをさすのでしょう?
俳句作りを仕事にしている人でしょうか?
そうではありません。加悦の鉄山さんも仕事は機屋さんでしたし、有名な与謝蕪村も、生涯ずっと貧しい暮らしをしていたといいます。
俳句が好きで、一生懸命俳句を作っている人は、みな俳人といえるのではないでしょうか?

もちろん、俳句をたった一つ作ったからといってその人が俳人というのはちょっと難しいでしょう。一生懸命俳句を作り続ける人のことだと思います。

ですからあなたも、今こうして「俳句の里」について調べてくれたり学校で俳句を作ったりするだけでなく、これから先自分でも俳句を作り続け、俳句に詠まれる自然を大切にし続けてくれるならば、あなたもまたりっぱな俳人といえるのではないかと思います。


Q,なぜ江山文庫はできたのですか

A, その前にまず、与謝野町は「俳句の里」であるだけではなく、「短歌の里」でもあることからおはなししましょう。

短歌のことは知っていますか?
俳句が5・7・5の17文字で出来ているのに対して、短歌は5・7・5・7・7の31文字で出来ています。
あなたはお正月に「百人一首かるた」をしたことはありませんか?
あのかるたで詠まれているのも5・7・5・7・7の31文字で出来た歌です。
俳句よりもちょっと長いですが、実は俳句より昔、奈良時代ごろからあるものなのです。
その頃はまだ「短歌」とは呼ばれておらず、「和歌」とか、たんに「歌」と呼ばれていて、短歌と呼ばれるようになるのはもっと後になってからのことですが、5・7・5・7・7の31文字で出来ていることには変わりありません。

短歌が短歌と呼ばれるようになった明治時代ごろ、たくさんのすばらしい短歌を作り、日本中の人たちに短歌を広めた人の一人に与謝野鉄幹(よさのてっかん)さんという人がいます。この人の奥さんは与謝野晶子(よさのあきこ)さんといい、やはりたくさんのすばらしい短歌を作りました。
二人とも歴史の教科書に出てくるくらい有名な人ですが、この鉄幹さんのお父さんは与謝野礼厳(よさのれいごん)さんというお坊さんで、なんとこの町で生まれたのです。
そして、礼厳さんもまたたくさんの短歌を作りました。

今でも短歌を作る人は、加悦にもたくさんいますし、俳句を作る人と同じくらい日本中に大勢います。そして、今でも鉄幹さんや晶子さんを尊敬する人たちが、そのお父さんのふるさとはどんなところだったのか一目見ようと、日本中から加悦に訪れています。

そうした人たちにもっともっと来てもらい、町内でも昔から愛されてきた俳句や短歌を、もっともっと大事にしてもらいたい、そして自分たちでも俳句や短歌を大事にしていきたい…
そんな願いで江山文庫は作られました。

俳句や短歌を作る人たちがお手本にできるような、昔のすばらしい作品を展示したり、みんなで集まって俳句や短歌作りを楽しんだりできる施設が欲しいという加悦の人たちの思いを、日本各地の多くの人たちがすばらしい事だと感心して、自分たちが持っていた昔の貴重な俳句や短歌の作品をたくさん贈ってくれました。
有名な俳句の先生からは、自分たちが作った大切な作品が贈られました。
中でも、里見恭一郎(さとみきょういちろう)さんという大阪のお医者さんは、自分とお父さんが長い間に集めていたたくさんの短歌や俳句のコレクションを贈ってくれました。
いま江山文庫にたくさんある短歌や俳句の半分以上が、この里見さんからいただいたものなのです。

地域の人々の思いと、全国の俳句や短歌を愛する人たちの支えにより、江山文庫は生まれたのです。

江山文庫は、そうした人たちの思いに応えるため、さまざまな活動をしています。
展示についても、何度来ても新しい発見をしてもらえるように1年に何回も入れ替えをします。小学校のみなさんからは俳句を募集したり、それらを展示したりもしていますが、こういったことも「短歌と俳句の里」の江山文庫のたいせつな仕事の一つなのです。


 
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