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与謝野町・季節のうたと俳句
このコーナーでは、かつて著名な歌人や俳人によって詠まれた、与謝野町にちなんだ短歌や俳句をいろいろ紹介しています。 随時追加していきます。
下線のある短歌や俳句をクリックすると詳細を表示します。

見も聞きも涙ぐまれて帰るにも心ぞ残る与謝のふるさと    与謝野礼厳

大江山花に戻るや小盗人        高濱虚子
岩に腰我頼光のつつじ哉         与謝蕪村
大江山王朝の鬼ありぬべし比治の山より若やかにして    与謝野晶子
海山の青きが中に螺鈿おく峠の裾の岩滝の町         与謝野晶子
楽しみは大内峠に極まりぬまろき入江と一筋の松       与謝野鉄幹

雲の峰に肘する酒呑童子かな      与謝蕪村

夏河を越すうれしさよ手に草履      与謝蕪村
大江山を猶大きくす雲の峰        青木月斗
施薬寺へ上りの逕の蜻蛉哉       青木月斗

飛ぶ雲に秋の日あたりそのもとに大江の山の盛れるうす紅  与謝野鉄幹
柿の村蕪村の母の墓ありと        高野素十

山の寺蕪村屏風を舒べて待つ      高野素十
舞ごろも着るべき人をなつかしみ縮緬町の加悦谷に来ぬ    吉井勇
縮緬の祭見に来と書きおこす丹後だよりも待たれぬるかな   吉井勇


見も聞きも涙ぐまれて帰るにも
 心ぞ残る与謝のふるさと           与謝野礼厳

   (みもききも なみだぐまれてかえるにも こころぞのこる よざのふるさと)     (よさの れいごん)

与謝野鉄幹の父として名高い与謝野町出身の僧侶歌人・与謝野礼厳の作品。
「明治25年の春、久しくまからざりし丹後國の与謝に下りて」と自身の前書きがあり、
当地で詠まれた歌とわかります。

  生れ故郷の与謝の里にしばらくぶりに戻ってみれば、
  何を見、何を聞いてもすべてがなつかしく、溢れ出す望郷の涙を禁じえない。
  今となってはこの地を離れ、遠き土地に居を構え枕を置けども、
  やはり心を残しているこの与謝こそ、私のふるさとなのだなあ…

当時69歳の礼厳はこの地で過ごした少年時代に思いを馳せ、何に涙したのでしょうか。
故郷への切なる思いにみちみちているような歌です。

与謝野礼厳は丹後國温江村(現在の与謝野町温江)の細見家の次男として、
文政6年(1823)に生まれました。
幼いころより与謝野町加悦の浄福寺で修行し、京都の西本願寺で得度した礼厳は、
生まれの地にちなんで「与謝野」姓を名乗るようになります。幕末には勤皇討幕運動に貢献し、
明治維新後は療病院や鉱泉場の開設など、各種の公益事業に従事しました。
歌を好んだ礼厳は1万7千百余首にものぼる歌稿を残しており、のちに斎藤茂吉は
「明治初期に出た特色のある歌人の一人」として高く評価しています。

明治25年春に当地に帰った折には、上の歌のほかにも生家のある温江の里を
次のように詠んでいます。

  「二度は越じとおもへばふる里の温江のさとのなつかしきかな」
   (ふたたびは こえじとおもへば ふるさとの あつえのさとの なつかしきかな)

 明治31年に75歳で亡く なった礼厳は、その生前の功績により、
大正6年には従五位に叙せられました。

「見も聞きも〜」の歌は、加悦町(現与謝野町)が復刻した「礼厳法師歌集」に収録されています。
また、この歌を石に刻んだ歌碑を、与謝野町字滝の道の駅敷地内で見ることができます。
                                          (平成14年設置)

大江山花に戻るや小盗人          高濱虚子
   (おおえやま はなにもどるや こぬすびと)                    (たかはま きょし)

明治35年(1902)4月、高濱虚子29歳のときの作品。

古来より大江山の鬼の見方も人によってさまざまでして、
漂着してこの地に巣くった外国人の、大柄で血肉を食らうその姿が鬼に見えたという説や、
酒呑童子は強盗の大親分であり、大江山は盗賊団の根城であったという説。
あるいは正に妖怪としての酒呑童子が源頼光に退治される、かの有名な物語などなど。

虚子の句は鬼を盗賊と見たもので、酒呑童子の手下の小盗人が仕事を終え、
町から大江山の根城へ帰ってくる光景を想像しています。

季語は「花」。俳句でただ花といえば桜を指しますが、山中ですのでここでは特に山桜でしょう。

強盗の大親分がその手下を大勢従えて砦を築いていたという大江山。
そんな恐ろしいところではあるが、山桜の頃に決まって帰ってくる手下の小盗人が、
花を愛でつつ歩くさまはどこかほのぼのとしている…

小盗人と山桜との取り合わせが、いかにも事実としてありそうな光景で、
虚子の豊かな想像力が発揮されています。


虚子は後、大正8年4月に丹後を訪れていますが、その際に天橋立を詠んだ
 
  「橋立の松はもとより椿かな」
   (はしだての まつはもとより つばきかな)

の句を残しています。

岩に腰我頼光のつつじ哉          与謝蕪村
   (いわにこし われらいこうの つつじかな)                     (よさ ぶそん)

明和年間(1764〜1772)の作といわれています。
蕪村49〜57歳頃の作になります。

丹後に滞在していたこともある蕪村が、大江山の鬼退治伝説をテーマに詠んだものです。

  ゆったりと岩に腰をおろし、赤く燃えさかるつつじを眺めている。
  ふとその赤さが、勇名高い我らが源頼光が
  あのおそろしい鬼を退治したときに飛び散った血潮ではないかと思われてくる…

蕪村の豊かな想像力が発揮された童話的・幻想的な一句です。

大江山の鬼退治伝説で、山伏に扮した源頼光が退治する鬼の頭領は酒呑童子といいますが、
酒呑童子について詠んだ句も蕪村は残しています。

  「雲の峰に肘する酒呑童子かな」(安永6年)
   (くものみねにひじするしゅてんどうじかな)

蕪村は、母の故郷の地から見えるこの大江山に対しても、
深い憧憬の念を抱いていたのでしょうか…


大江山王朝の鬼ありぬべし
  比治の山より若やかにして        与謝野晶子

 (おおえやま おうちょうのおに ありぬべし ひじのやまより わかやかにして)  (よさの あきこ)

昭和5年5月、晶子53歳のときの作品。

大正期から昭和にかけて、与謝野晶子は国内外を問わずさまざまな土地を旅しました。

 「よい自然の所へ置いて下されさえするなら、
  促されずとも私達は歌を詠まずにはいない」

 「炎熱の苦痛も歌さえ詠んでいれば忘れることができる」

と語っており、彼女にとって旅は創作の大きな原動力となっていたようです。

そうした旅のひとつとして、彼女はこのとき夫である与謝野鉄幹とともに丹後を訪れ、
天橋立や琴引浜など、丹後の各地で多くの歌を詠みました。
中でも大江山を詠んだものが上の歌です。

「比治の山」とは、京丹後市峰山町にある磯砂山(いさなごさん)のこと。
丹後風土記(715年)の中には、頂上には真奈井という池(女池)があり
この池に天女が降り立ったという、日本最古の羽衣伝説の記述が残っています。

  王朝の時代、鬼が住んでいたという大江山
  その恐ろしい言い伝えとは裏腹に、山肌を新緑に染めたさまは美しく、
  深い緑に覆われた比治の山(磯砂山)の静謐に比べれば若々しくさえある
  王朝の頃といえばたいそう昔のことのようだが、
  天女が降り立ったという比治の山に比べれば
  若やいで見えるのももっともなことであるよ…

5月、大江山の若葉がとても美しい頃です。
季節ごとにめくるめく変化を楽しませてくれる大江山の美しき一瞬を切り取り、
王朝趣味を織り交ぜつつ謳い上げています。

晶子は大江山と比治山との対照を好んだようで、丹後旅行中に次のような歌も残しています。

  「大江山遠く青かり比治山は心のごとく襞多くして」
   (おおえやま とおくあおかり ひじやまは こころのごとく ひだおおくして)

こちらの歌では大江山は遠景となり、比治山の静謐を際立たせる役目を果たしています。
晶子の胸にあった心の襞とは、いかなるものだったのでしょうか…



海山の青きが中に螺鈿おく
   峠の裾の岩滝の町           与謝野晶子

 (うみやまの あおきがなかに らでんおく とうげのすその いわたきのまち)    (よさの あきこ)

昭和5年5月、晶子53歳のときの作品。

このとき晶子は夫の鉄幹とともに丹後地方を周遊し、大江山や天橋立、大内峠などを
多くの歌に詠みました。なかでも天橋立廻旋橋を詠んだ

「人おして廻旋橋のひらく時くろ雲うごく天の橋立」
 (ひとおして かいせんきょうの ひらくとき くろくもうごく あまのはしだて)

 の歌はあまりにも有名です。

また晶子は岩滝町婦人会の求めに応じ、当地で講演会も行っています。
天橋立の眺望も美しい大内峠から岩滝の町を眺めて詠まれたのが表題の歌。
※「螺鈿」とは、アワビなどの貝の真珠質の部分を薄く研磨し、文様の形に切って漆塗面に
 はめ込んだり、貼り付けたりする装飾技法で、光線の当たり具合によって、貝の部分が
 青や白に美しく光るのが特徴です。

 
  空の青さに海も山も溶け込んで、景色が青一色となる薄暮れどき、
  大内峠から裾野を見下ろせば、灯りをともし始めた岩滝の町並みが、
  あたかも螺鈿細工のようにきらきらと輝き、海山の青と美しい対照を
  なしている…

晶子の歌は色彩感覚の鮮やかさが特徴といわれますが、この歌でもそれが発揮されています。
螺鈿細工になぞらえられる町の輝きが、ちりめん産業などで発展した当時の岩滝の町の隆盛
をしのばせます。

晶子が当地に残したこの歌は、大内峠一字観公園にある歌碑でも見ることができます。(写真左端)
これは昭和5年当時に岩滝町婦人会によって建立されたもので、裏面には鉄幹の歌
刻まれています。



楽しみは大内峠に極まりぬ
     まろき入江と一筋の松       与謝野鉄幹

 (たのしみは おおうちとうげに きわまりぬ まろきいりえと ひとすじのまつ)     (よさの てっかん)

昭和5年5月、鉄幹58歳のときに晶子とともに丹後を訪れた際の歌です。
峰山を経て宮津・天橋立を旅した夫妻は、地元岩滝の俳人で郷土史家でもあった小室洗心の
案内でさまざまな橋立の姿を目の当たりにしました。
その末に生れたのがこの歌。

  古来より橋立の見方、楽しみ方はさまざまであるが、
  極めつけはなんといっても大内峠からの眺望につきる。
  円く孤を描く阿蘇海の入江の中にただ一筋、松の緑一色に彩られた橋立が
  真一文字に走る様は、簡素ではあるがそれ故に、
  足すべき物も省くべき物も無い美しさがある。

国内外を問わず各地を旅し、多くの名勝で数々の優れた歌を詠んで来た鉄幹が、
飛龍観・雪舟観など、数ある橋立の景勝地の中で最も美しいものとして、大内峠に
お墨付きを与えたかのような歌です。

この歌の直筆は、晶子の歌とともに大内峠一字観公園の歌碑で見ることができます。


※与謝野鉄幹は明治37年に「鉄幹」の号を廃して以来、本名である「寛」を名乗っていますが、ここでは歌の年代にかかわらず、表記を「鉄幹」で統一しています。

  
雲の峰に肘する酒呑童子かな       与謝蕪村
 (くものみねに ひじする しゅてんどうじかな)                      (よさ ぶそん)

安永6年(1777)、蕪村62歳のときの作品。

丹後に滞在していたこともある蕪村が、大江山の鬼伝説をテーマに詠んでいます。

  夏空にもくもくと入道雲が湧いて、見ている間に空高く大きく伸びてゆく。
  雲の峰にまた雲の峰が重なり、その向こうには夕日が赤くさしてきた。
  見つめていると、恐ろしい大きな酒呑童子が、大酒を飲んでその大きな顔を真っ赤に染め、
  岩のように見える雲の峰に肘をついて、こちらをきっと睨みつけているように見える…

先の頼光の句とともに、鬼の伝説から蕪村が想像力の翼を広げた一句です。
大江山の鬼伝説では、鬼の頭領で大酒呑みの酒呑童子は山伏に扮した源頼光に退治されますが、蕪村がその頼光と酒呑童子の双方について句を残しているのが面白いですね。

蕪村の丹後滞在は宝暦4年〜7年(1754〜1757)といわれていますので、どちらの句も丹後を訪れ、大江山の雄姿をその眼で存分に味わった上で生れた作品です。


夏河を越すうれしさよ手に草履       与謝蕪村
   (なつかわを こすうれしさよ てにぞうり)                    (よさ ぶそん)

宝暦4年から7年(1754〜1757)の間に丹後に滞在した与謝蕪村が、当地で詠んだ俳句として名高い作品。
町内滝の施薬寺には彼の描いた屏風が残っています。

この俳句には「加悦といふ所にて」と前書きがされています。
そのことから、ここでの「夏河」は、与謝野町内を流れる野田川または滝川ではないかと言われています。

  夏の暑い中を歩いていると川の前にやってきた。
  対岸へ渡りたいが、見回すと近くに橋らしいものもなさそうである。
  そこで草履を脱いで両手にぶら下げ、
  素足で川の中にじゃぶじゃぶと入っていった。
  流れに触れる足の冷たさはとても気持ちよく、こうしていると
  子供の頃に裸足で川遊びをしたことなどを思い出し、
  我ながら何とも嬉しい心持になってくる…

与謝野町は蕪村の母のふるさとと伝えられています。
母を早くに亡くした蕪村はその面影をしのんで当地を訪れ、楽しかった少年時代に思いをはせてこの句を詠んだのでしょうか…


この俳句の直筆原稿は山形県酒田市の本間美術館に所蔵されています。
ここに残る蕪村の筆跡をもとに作られた句碑を、与謝野町字滝の野田川親水公園で見ることができます。(平成13年設置)


大江山を猶大きくす雲の峰         青木月斗
   (おおえやまを なおおおきくす くものみね)                   (あおき げっと)

昭和2年8月の作品。
蕪村の足跡と遺墨をもとめて丹後を旅した青木月斗は、8月16日正午、加悦鉄道加悦駅(現在の与謝野町加悦庁舎付近)に降り立ちました。そこで目の当たりにした光景。

 真っ青な夏空に映える大江山連峰の雄姿。
 その上に層々として奇峰を争うように連ねる入道雲の峰。
 その連なりが大江山をさらに雄大に見せている…

大江山の大自然に対する作者の率直な畏敬の念があらわれています。
月斗はこのとき暫くその場にじっと佇んでいましたが、夜になって筆をとり書いたのがこの俳句であったといいます。

青木月斗はこの日、与謝野町字滝の施薬寺で与謝蕪村の「方士求不死薬図」を見るのですが、
そこで詠まれたのが次の一句です。

  「施薬寺へ上りの逕の蜻蛉哉」
   (せやくじへ のぼりのみちの とんぼかな)


青木月斗は明治12年(1879)、大阪市生れの俳人です。
母の影響で幼少の頃より俳句を作り、正岡子規に認められて大阪で活躍しました。
昭和2年、丹後に来訪。当地にも立ち寄り、上の句のほかにも多くの俳句を残しています。

  「大江山を眺めの庭や百日紅」
    (おおえやまを ながめのにわや さるすべり)

  「大江山に崩るヽ丹波太郎かな」
    (おおえやまに くずるるたんば たろうかな)  ※丹波太郎は当地での入道雲の別称

  「蕪村見て織場見て日の盛り哉」
    (ぶそんみて おりばみてひの さかりかな)

子規を敬愛し、多くの句を残した青木月斗は昭和24年、70歳でこの世を去りました。

命日である3月17日は「月斗忌」として俳句愛好家たちによって毎年法要が行われ、3月の季語にも用いられています。


施薬寺へ上りの逕の蜻蛉哉         青木月斗
   (せやくじへ のぼりのみちの とんぼかな)                      (あおき げっと)

昭和2年8月の作品。
丹後における蕪村の足跡をもとめて旅した青木月斗が、蕪村の屏風があるという与謝野町字滝(当時は与謝村)の施薬寺を訪ねた際、寺の住職さんの求めに応じて詠んだものです。

  目的の施薬寺を目指して、今ほどは開けていなかった道を汗を流し歩いてゆく。
  まだかまだかと上り坂をあがっていく道の途中で、
  突き出た枝の先にとんぼがとまっているのを見た。
  人が近くに来たことなど気にもとめないその姿が、
  歩き疲れた心と体をふっとほぐしてくれる…

暑さの中にも清涼感の漂う一句です。


青木月斗はこの時だけでなく、昭和10年にも丹後を訪れています。
蕪村の足跡を中心に辿った8年前に対し、丹後の海を中心に見て回ったこの時には

  「天橋や鴎の声ときりぎりす」
     (てんきょうや かもめのこえと きりぎりす)

        等の句を残しました。
飛ぶ雲に秋の日あたりそのもとに
 大江の山の盛れるうす紅         与謝野鉄幹

(とぶくもに あきにひあたり そのもとに おおえのやまの もれるうすべに)      (よさの てっかん)

昭和6年11月の作品。
このとき与謝野鉄幹は、与謝野町出身の父・与謝野礼厳法師の追念碑除幕式に出席するため、父親の面影が残るここ当地を訪れました。

  真夏に比べ低くなった陽光が空の雲にあたって光り輝いている。
  その空のもとには大江山連峰が広がり、
  山肌一面がこれまた紅葉によって薄紅色に輝いている…

大江山の秋の美しさを、その空の色との調和の中でうたっています。
鉄幹の父礼厳は浄土真宗の僧でありながら歌人でもあった人で、生涯に二万首の歌を作ったと言われています。そのうち、故郷である加悦町をうたったものとして

  「見も聞きも涙ぐまれて帰るにも心ぞ残る与謝のふるさと」 (明治25年春)
    (みもききも なみだぐまれて かえるにも こころぞのこる よざのふるさと)
                                    があります。

ここに紹介した礼厳・鉄幹親子の歌は、それぞれ町内の歌碑でも見ることができます。
(平成14年・15年設置)


柿の村蕪村の母の墓ありと           高野素十
  (かきのむら ぶそんのははの はかありと)                         (たかの すじゅう)

昭和34年1月に発表された作品です。

高野素十は前年に与謝野町を訪れ、この句を詠みました。
与謝蕪村の母親のふるさとと伝えられ、蕪村自身もかつて訪れた当地には、
その遺墨や足跡を求めて、古くからさまざま俳人がやってきました。
彼らが決まって訪れるのが、蕪村直筆の屏風「方士求不死薬図」が残る加悦町滝の施薬寺と、
もう一つがこの俳句に詠まれている、蕪村の母・谷口げんが眠ると伝えられる墓です。

蕪村自身は摂津國毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)の出身といわれていますが、
当地の言い伝えによれば、蕪村の母とされる谷口げんは丹後國与謝村(現在の与謝野町字与謝)
農家に生れ、旅早乙女として出稼ぎに行った先の毛馬村で蕪村をもうけたといいます。
その後、与謝村に戻った母と共に、蕪村も少年時代をこの地で過ごしたとのことです。
しかし蕪村が13歳のとき、げんは32歳という若さで亡くなったようです。

後に蕪村はこの地を訪れ、母の面影残るこの地で
  「夏河を越すうれしさよ手に草履」
 の句を詠みました。
町内にはげんの物と伝えられる墓が残っています。


高野素十も蕪村の足跡を訪ねた俳人のひとりでした。
彼が当地を訪れた直接の理由は、自らが創刊主宰する俳誌「芹」の丹後支部発会式のためでしたが、
俳句の偉大なる先達のゆかりの地にはひとかたならぬ思いがあったことでしょう。
実際彼はげんの墓だけでなく施薬寺にも訪れ、俳句を残しています。
また、農家の娘であったげんを連想したのか、彼は次のような俳句も残しています。

「麦蒔の与謝の女を顧みし」
(むぎまきの よざのおんなを かえりみし)

与謝野町与謝にあるげんの墓には、現在も多くの俳句愛好家らが訪れています。
晩秋にはたわわに実をつけた柿の木が町のあちこちで見られます。


山の寺蕪村屏風を舒べて待つ         高野素十
  (やまのてら ぶそんびょうぶを のべてまつ)                        (たかの すじゅう)

昭和34年1月発表の作品。
高野素十は前年冬に、自らが創刊主宰する俳誌「芹」の丹後支部発会式のため、与謝野町を訪れました。

「山の寺」とは、与謝野町滝の施薬寺のこと。
与謝蕪村が描き遺した屏風「方士求不死薬図」を所蔵することで古くから有名なお寺です。

季語は「屏風」。
部屋の仕切り・装飾品でもあることから、屏風は必ずしも冬に限って用いられる物ではありませんが、風除けという側面から、俳句では冬の季語とされています。

蕪村の屏風を「舒べて待つ」のは寺を訪ねた作者ではもちろんなく、自分を迎えてくれる住職さんなのですが、ここでは作者は住職さんの気持になって、寺一番の屏風でもって客人を迎えるあたたかさを描いています。

与謝野町字滝には蕪村の母のものと伝えられる墓があり、ここで素十は

  「柿の村蕪村の母の墓ありと」(昭和34年1月)
   (かきのむら ぶそんのははの はかありと)

                    の句も残しています。

舞ごろも着るべき人をなつかしみ
 縮緬町の加悦谷に来ぬ              吉井勇

 
(まいごろも きるべきひとを なつかしみ ちりめんまちの かやだににこぬ)         (よしい いさむ)

昭和8年2月の作品。
吉井勇はこのとき越後から北陸路を経て丹後路を旅しました。
与謝野町にも訪れており、そこで詠まれた歌です。

  ちりめんの舞姿に身を包んだ美しいあの人の面影を
  なつかしく思いながらやって来たこの谷は縮緬で栄える加悦谷の地。
  街並みや機屋を見るにつけ思われる
  ああ、あの人の舞衣ももしやこの町で織り上げられたのだろうか

浪漫的な情景と共に、ちりめん産業で栄えていた往時の加悦谷の姿がしのばれます。
「着るべき人」が具体的に誰をさすのかははっきりしませんが、
この歌に先んじて大正5年には与謝野晶子が「舞ごろも」という詩歌集を出しています。
あえて「舞衣」とせずに表記を合わせることで、暗に晶子のことを歌に詠み込んでいるとも思われます。


吉井勇は明治19年、東京生れ。
与謝野鉄幹の新詩社に入社し、「明星」に短歌を発表。明治42年「スバル」創刊に参加し、石川啄木や平野万里らとともにその編集にあたりました。
恋愛を謳った歌の数々や、京都は祇園を舞台にした

  「かにかくに祇園は戀し寝るときも枕の下を水のながるる」 
   (かにかくに ぎおんはこいし ねるときも まくらのしたを みずのながるる)

 の歌などで有名です。


加悦谷を訪れた彼にとって、詠われているような慕情もさることながら、、かつての師であった与謝野鉄幹ゆかりの地という思いもまたあったようで

  「丹後なる桑飼村はかしこしや与謝野の大人の生れましし里」
    (たんごなる くわがいむらは かしこしや よさののうしの あれまししさと)

 の歌も残しています。
与謝野礼厳の生れた温江を含む明石・香河地区は、当時はまだ桑飼村でした。
彼の師・鉄幹は京都市岡崎の生まれで、正しくは「与謝野の大人の生れ」た地ではないのですが、
その父親の里ということでこのように詠っています。

「舞ごろも」の歌で晶子を匂わせるような表記がなされているのも、あるいは鉄幹・晶子ゆかりの
この地で詠んだ歌であるという含みなのかもしれません。



縮緬の祭見に来と書きおこす
 丹後だよりも待たれぬるかな         吉井勇

 (ちりめんの まつりみにこと かきおこす たんごだよりも またれぬるかな)      (よしい いさむ)

上述の「舞ごろも〜」の歌と同じく、昭和8年に丹後を訪れた吉井勇47歳の時の作品。

  かの縮緬の里では毎年盛大な祭が行われる。「今年もぜひ祭を見にいらっしゃい」との
  書き出しで始まる当地からの便りも今や恒例のものとなった。
  今年もそろそろあの便りが丹後から届くのであろうか…

ここでの「縮緬の祭」は現在の加悦谷全域で古くより行われている加悦谷祭りでしょう。
加悦谷祭りは明治の末期より現在の時期(4月下旬)に統一されているといいますから、
昭和8年に詠まれたこの歌での「便り待たれぬる」思いは、
同時に暖かい春を待ちわびる思いにつながっていくのでしょう。

この昭和8年の冬の旅について彼は

「残雪は斑に凍り、四五子と行をともにすれども、猶寂寥に堪へざるものありき」

 と書いています。
堪えがたい寂しさにかられる丹後の冬の厳しい寒さのなか、
春の暖かさを祭りの賑やかさになぞらえる歌人の心情が
歌からひしひしと伝わってきます。




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